舞台「刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰」個人的考察
舞台「刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰」個人的考察
舞台の感想と役者さんへの感想を1日1ページずつ書いて、ようやく個人的な考察を書けるというろまできたのに、
今度は私の記憶が・・・・・・曖昧になってきました。
それでは私の思ったことをつらつら綴っていきます。
(私の刀ステ知識は恥ずかしながら、
燃える本能寺初演と再演しかありませんので、あしからず)
さて、悲伝の考察としては
個人的には3つのテーマかなと思います。
「悲伝である意味」
「鵺と呼ばれる存在について」
「結いの目の不如帰とは誰なのか」
様々なところで刀ステの集大成と言われている今作。
ひたすらに不穏で不審で重くて、頭の中がぐるぐるし続けてました。
少しでも理解しようと頭を絞ってみました。
まず、「悲伝である意味」
私は内容的にも悲しいを主軸においた物語であるが故に悲伝なんだなぁと観劇後は思ってました。
確かに、劇中にも「心が非ずでかなしい」と台詞があったように誰にも救いがなくただ、歴史の糸(意図)に流されるまま終焉にむかって行く様はまさしく悲伝。
でも、集大成と言われる今作がそんなありきたりな意味であるのかとひっかかりがありました。(深読みしすぎかもしれませんが・・・・・・)
ふと、小烏丸様の劇中最後に
心が非ずでかなしいはずなのに、心があってもかなしいとは矛盾というような台詞を思い出しました。
心が非ずでかなしい、心があってもかなしいとは矛盾といっても、そもそも刀に心を宿している時点で存在の矛盾でもあるわけでと考えて、
もしかして、心が非ずが伝えるという意味で
「刀の物語」という意味なのではないでしょうか。
悲という字面をみると喜怒哀楽の感情で読み取ってしまいがちですが、
悲=刀なのではないかと思います。
二つ目は「鵺と呼ばれる存在について」
足利義輝の所有の刀が寄り集まり義輝の根底の悔恨、歴史修正の力の余波等から生まれ出た刀剣男士(仮)(存在の誕生の仕方については謎ですが)
最初は言葉をしゃべることもままならない。
カタコトにヨシテルサマ、マモル、シナセナイしか発しません。
様々な時代で刀剣男士と戦うことによって経験値を上げていき、ついには
義輝様から不如帰という名前を頂くことによって複数の刀の人格を所有し、不安定になっていた自我がまとまります。
一人前の刀剣男士(仮)になり、義輝様を守るために奮闘します。
鵺と呼ばれる刀剣男士はいったい何者なのか。敵か味方か・・・・・・。
私は鵺=三日月宗近だと思っているんです。
鵺は後に義輝様から不如帰という名を頂きます。
不如帰とは義輝様曰く、死者を迎えに来る黄泉からの遣いであり、帰りたい、帰りたくないと解釈できる曖昧なものというようなことを言っておりました。
それに義輝様の辞世の句でも用いられているところを見ると義輝様自身不如帰がすきなんだろうなと思います。だから意味なく名付けたんだろうと思うことは簡単なのですが、またも引っかかりがあって。
冒頭で三日月さんに対してお前が不如帰か?と義輝様が言うんですよね。
これだけならば、死ぬ間際に出くわしただけに黄泉の遣いということで理解は出来たんですが、終盤で鵺が「はは、笑っている場合ではないな」って戦いの最中呟くんですよね。
あれ、この台詞聞いたことあるぞ。
というところで三日月さんが思い当たるんですよね。
(こころなし、その台詞の後の鵺さんの立ち回りが三日月さんと似ているような・・・・・・)
なので、鵺の存在は当時の三日月さんなのではないかなぁというのが私の考えです。
三日月さんが何度も鵺を見逃してはあの存在に期待していると言っているのが、
あの日の自分が義輝様と戦っていたらどうなっていたのだろうと見届けたい気持ちが強いんじゃないかなと思います。(歴史的に何かを期待しているわけではない気がします。ここは三日月さんの普段は絶対見せない感情の根っこの部分なんじゃないかなぁ)
結局は刀剣男士によって義輝様の悲願は叶えられないところが苦しいです。
「結いの目の不如帰とは誰なのか」
最後にこちら。
ではサブタイの結い目の不如帰とは誰のことなのか。
劇中の結いの目の意味としては歴史を一本の糸としたときに
多くの時代を幾度となく出陣してきた今回は三日月宗近が歴史の一種の特異点として作用してしまっているために、弊害がでている。
三日月さんの存在自体を結いの目と言っていたように記憶しています。
今回の結いの目は三日月さんだった訳ですが、不如帰・・・・・・?
不如帰も三日月さんなの?と私の短絡的な頭はそう思い込もうとしますが、冷静になって考えると私は一振りしか該当しない気がします。
そもそも、結いの目、結いとは結びということでよく文章が終わる頃合いに結びと言いますし、何かを終了させるとき完結を使うように終わりの意味だと仮定すると、結いの目=終わりの場面とします。
公演内で何度も終わりの場面があります。敵の死、義輝の最期、黒甲冑の最期、三日月の刀解。その場面に常に居合わせていたのは初演から出ている山姥切国広ではなく、今回初参加の小烏丸様なのです。
よくよく思い返すと場面が盛り上がるタイミングには必ず小烏丸様がいるんですよね。
小烏丸様=結い目の不如帰ではないでしょうか。
どこかのタイミングで小烏丸様が
自分の力が必要になるときだなみたいな事をいっていて、
練度も経験値もあまりないのに戦闘力が高くて、大包平さんに化け物と呼ばれるところをみるとただ者じゃないです。
一つ思う事としては歴史の一種の特異点になるほどの結いの目が現れる時に小烏丸様はその本丸に顕現されるのではないかと思うばかりです。
そう思うと少し恐ろしいです。
結いの目システムは2人1組で継続していくものでもあるのかなと思います。
今回は三日月宗近と山姥切国広の物語を主軸に三日月さん(結いの目)を断ち切るものとして山姥切さんがいて結いの目を終了させる。(台詞の月と煤けた太陽という比喩が素晴らしかったです)
今度は山姥切国広が後の結いの目として存在し、断ち切る存在待ちになるのでしょう。それを見守っていくのが小烏丸様ということなのではないでしょうか。
今回は三日月さんと山姥切さんのお話。
他の本丸ではまた違う刀剣がその任を担うとすると刀剣乱舞っていうシステムは本当に残酷かつ、孤独だなと思うばかりです。
審神者様自身もご存じだったら、また闇が深いなと思います。
この結いの目システムをふまえて悲伝(刀の物語)とするのであれば
演出脚本末満さんに頭が上がりません。
さいごにこれは個人的な考察であり、裏付けも曖昧な感じが多いですが、こういう感じなのかなと一種の悲伝の楽しみ方として書かせて頂きました。
これにて、考察 完!
長々とありがとうございました!